マグニチュード6.5を記録した熊本地震の前震の発生から今日でちょうど3年が経ちました。
さらに翌日の深夜にはマグニチュード7.3を記録する本震も発生。
熊本市内に住んでいる僕も自宅で被災しました。
被災後の避難や小学校での初めての避難所暮らし、そしてライフラインの切断…
今でもあの日のことを思い出すと胸がドキドキしてきます。
それでも、あの日被災した熊本県民の一人として何かのお役に立てるならと、僕が実際に経験したことや気付きを思い出せる範囲で書き留めておこうと思います。
(※写真の熊本城はすべて2019年4月に撮影したものです)
その日は突然やってきた
2016年4月14日午後9時26分、それは前触れもなく突然やってきました。
地鳴りとともに少しずつ揺れ始める地面。
とっさに「あ、地震だ」と気づきました。
ただ、熊本でも小さな地震はちょくちょく起きていたので、どうせすぐに収まるだろうと思っていました。
ところが揺れは一向に収まらず、逆にどんどん大きくなっていきます。
テレビを見ていた僕は、とっさに近くにあった毛布を頭からかぶりました。
それまで経験したことのない、かなり激しい揺れでした。
そして、気がつくといつの間にか収まっていました。
部屋の中のものはグチャグチャ。
本棚やタンスなど、倒れそうなものはほとんどすべてひっくり返ってしまってました。
ここまで大きな地震は初めてだったので、とても驚きました。
「とにかく避難しよう」、すぐに靴を履いて外に出ました。
近くのショッピングモールの広場にはすでに何人かの人たちが避難していて、僕も広場の真ん中あたりで時が過ぎるのを待っていました。
その間も絶え間なくやってくる余震。
一向に収まらない揺れにショックで何をしたらいいのか分からず、脇にしゃがんだまま1時間ほどスマホでネット情報を眺めていました。
幸い僕のアパートは大きな被害もなかったようで、とりあえず部屋に戻ることに。
一時的に電気はストップし、部屋の中は真っ暗。
水道やガスも止まっていました。
余震の恐怖もあって、朝方までなかなか寝付けなかったことを覚えています。
午後に目を覚ました僕はとりあえず部屋の中を片付けようと思い、倒れた本棚などをもとに場所に戻したりしました。
気が付くと電気も復旧し、テレビも見られるように。
夜までかかった部屋の片付けもひと段落し、ほっと一息。
テレビで被災状況を見ながらくつろいでいたとき、史上類を見ない二度目の大地震が再び熊本、そして大分を襲います。
翌日二度目の大地震が熊本を襲う
2016年4月16日1時25分、ちょうどテレビで被災状況を見ていたときでした。
ドォーーーーーーーーーン!
地面の底の底から響き渡ってくるような地鳴りとともに、前日よりもさらに激しい揺れが襲ってきたんです。
まさか二度目がくるとはまったく予想もしていなかったので、ただなすがままの状態でした。
前日に起こった地震は、本震ではなくて前震だったんです。
昨日と同じように毛布をかぶって頭を守るので精一杯の状態。
頭の上を右へ左へと飛び交う部屋中のモノたち。
例えるなら、まるで洗濯機の中に入れられた洗濯物のように、自分自身の体が無造作にかき回されているような感覚でした。
どれくらいの時間が過ぎたでしょうか。
僕の体は落ちてきた物たちで埋まり、ありとあらゆるものが床一面に散乱していました。
ご飯を炊いたばかりの炊飯器、食器棚、テレビ、靴箱…
文字通り、足の踏み場もないほど。
電気も再びストップし、部屋の中は真っ暗。
「外に、外に出ないと…」
なんとか玄関までたどり着いて靴をはき、地震の影響で歪んで開きにくくなっていたドアをこじ開けました。
すると、同じアパートの人たちも続々と出てきているところでした。
「とりあえず車で実家に避難します!」
「歩いて避難所に向かいましょう!」
お互いの安否を気遣いながら会話している声が聞こえます。
近くのブロック塀は半壊して地面に散らばってしていました。
足元に気を付けながらなんとか国道まで出ると、夜中なので当然辺りは真っ暗で何も見えません。
ビルのガラスは割れて地面に飛び散り、お店の看板は落下し、ほぼすべての建物の明かりは消えていました。
ただ、遠くの夜空だけが薄っすらと赤く光っていたのを覚えています。
あの何とも言えない恐ろしい光景は今でも忘れません。
どこかに電話している人、スマホで状況を確認している人、どうしたらいいのか分からずにただぼう然と立ったままの人…
その間も、ゴゴゴゴー!という地鳴りとともに何度も余震が襲ってきます。
地面が大きく揺れる度に暗闇の中に響く、何とも表現しようのない人々の怯える声。
僕は実家の両親に安否の電話をかけた後、とりあえずスマホで現在の状況を把握しようとインターネットでいろいろと調べてみることに。
するとあらゆる真偽不明の情報が飛び交っていました。
などなど。
今から思い出すと外国の写真だったり作り物の画像だったりと、どう考えても有り得ないことだと分かります。
ただ、当時は電気がつかないのでテレビで確認することもできず、また地震のショックで混乱していて冷静に考える頭もありませんでした。
「終わった…」
何度もその言葉が頭の中をぐるぐると回っていました。
そんな精神状態のまま、3時間ほど過ぎていたと思います。
「とりあえず避難所へ向かおう…」
夜中も4時を過ぎたころ、意を決して避難所へ歩いて向かうことにしたんです。
恥ずかしいことに、僕はこのときになるまで自分の住む地域の避難所がどこにあるのかまったく把握できていませんでした。
そこで、コンビニで働いていた時に仲良くなっていたお客さん(※以下、Aさん)に電話をかけてみました。
すると、すでに前日の前震のときから避難所に身を寄せているとのこと。
そこで、気力を振り絞ってAさんがいる避難所へ歩き始めます。
暗闇の中で避難所を探してさ迷う
避難所に向かって移動を始めると、すぐに道路があらゆるもので埋め尽くされているのに気付きました。
幸い底の厚い頑丈な靴を履いていたのでよかったのですが、スニーカーなどだったらおそらく底が保たなかったと思います。
しばらく歩いていると、ちょうど新聞社の社員の方々がヘルメットを手に取材に向かうところに遭遇しました。
他にも、自転車や徒歩で暗闇の中をすれ違う人たち。
みんな『心ここにあらず』といったぼう然とした表情に見えました。
それはまるで廃墟の街をさ迷い歩いているかのような感覚を覚えました。
僕自身、まるで日本ではないような光景に「もしかすると、これは夢なんじゃないか」と何度も思ったりもしました。
そして、窓ガラスの破片や木の枝などが散乱する歩道を1時間ほど歩いたでしょうか。
なんとか目的地の避難所である小学校にたどり着きます。
慣れない避難所での生活
避難所である小学校の入り口につくと、すでにたくさんの人たちが集まっていました。
ラジオからは現在の状況を知らせるアナウンサーの声が響き、小学校のスピーカーからは避難を訴える音が定期的に鳴り響いています。
先に避難をしていたAさんをなんとか探し出し、そこでやっと落ち着いて休むことができました。
と同時に「これから一体どうなるんだろう…」という先の見えない不安が襲ってきます。
こんな二度の大きな地震に被災することも、避難所での生活ももちろん経験したことはありません。
僕だけでなく熊本に住む大半の人たちがそうだったと思います。
でも、そうしてばかりもいられません。
「サッカーゴールを横に倒そうと思うので、手伝える男性の方は手を貸してください!」
グラウンドにあるサッカーゴールを簡易的な連絡所代わりにするとのことでした。
たくさんの男性がサッカーゴールの周りに集まってきます。
僕も手伝おうとすぐに向かいました。
こういう危機的な状況に陥ったときの日本人の団結力っていうのは、本当に凄いものがあるんだと改めて感じました。
その後、とりあえず休もうとみんな横になっていました。
僕とお客さんは体育館のすぐ外側のコンクリートの上にダンボールを敷いて寝たのを覚えています。
当たり前ですが、避難所での生活は慣れないことの連続でした。
もちろんシャワーなんてありません。
電気が切れているのでテレビも見られません。
みんな同じ空間で過ごすのでプライバシーなんてものもありません。
バッテリーがもったいないのでスマホもたまにしか使えません。
なにもやることがないので、日中はひたすらぼーっとするだけ。
下手にあちこち動いて体力が落ちたり、体調が悪くなったりしたら大変なことになります。
僕たちがいた避難所でも、インフルエンザにかかってしまい隔離のために他の場所へ移動することになった方もいました。
そんなとき、まだ小学校にも上がらないくらいの男の子たちでしょうか。
僕たちの前でボールを使って楽しそうに遊んでいました。
Aさんが突然怒鳴りつけたんです。
「コラ!お前たちせからしか!みんな避難所暮らしで疲れとらすどが!なんば騒ぎよっとか!」
子供たちは急な出来事にしょぼんとしていました。
確かにAさんの気持ちも分かります。
ただ、遊び盛りの子供たちの気持ちだって分かります。
慣れない避難所暮らしのせいで、みんな少しずつストレスがたまっていくんですね…
これは誰も責められないと思いました。
その後、夕方からは天気が急変して大雨が降り出してきました。
体育館も避難所になっていたので中で過ごすことも出来たのですが、すでにかなりの人たちがいたので僕たちは遠慮してそのまま外のコンクリートの上で休むことに。
体育館の屋根がギリギリあったのでなんとか雨に濡れるのは避けられましたが、4月とはいえ夜はまだまだ冷えます。
雨にせいもあってかなり肌寒くてなかなか寝付けなかったのを覚えています。
翌日は小学校の校舎が開放されたので教室の廊下で休むことができました。
支援物資が到着し、一人一枚の毛布が支給されたときは本当に嬉しかったです。
また、地域の治安を守るために、毎日消防団の人たちがトラックに乗って定期的に警邏(けいら)活動に行っていました。
外国人の人たちもちらほら避難していましたが、表情を見ると比較的安心して過ごしていたように見えました。
『自分たちの住む場所は自分たちで守る』
当たり前のことですが、今回の避難所暮らしで改めて気付かされた出来事の一つです。
そして避難してから3日後、熊本県内のいくつかの温泉施設が被災者のために無料で開放されることになりました。
僕もさっそく『城の湯』に行くことに。
到着したときにはすでに300人以上の人たちが列を作っていて、入浴できるまでに2時間ぐらい並びました。
それでも、数日ぶりに入ったお風呂の気持ちよさは今でも鮮明に覚えています。
自宅に戻ってきてから
電気については比較的早い段階で復旧していました。
また、幸い僕の住むアパートは大きな損壊などもなく無事でした。
そこで、避難所を出て自宅に戻ることに。
ただ、Aさんの住む建物は崩壊の恐れがあったようで、まだしばらくの間は避難所で過ごすことに。
僕の避難所での生活は実質4日間ほどでしたが、それでもあんなに不便な思いをするのか、そして普段の平穏な日々がどれだけ幸せだったのかを改めて思い知らされました。
帰る途中で公園や河川敷を通りましたが、車中泊をしている人たち、テントを張って過ごしている人たち、まだまだたくさんいるような状況でした。
スーパーなどにも、少しずつですがおにぎりなどの物資が届くように。
ただ、建物の中はまだ危険な状態だったのでお店の外に商品を並べた状態で販売されていました。
その時点で水道はまだ復旧していなかったので、僕は市内を回って被災用として透明な袋に入れて供給される飲料用の水を定期的にもらいに行く必要がありました。
また、建物には赤や緑の張り紙が貼られ、被害の大きいこと示す赤い紙が貼られた建物の近くを通るときは気をつけながら歩いたりもしました。
自宅に帰ってからも大きめの余震が続き、数ヶ月の間不安な日々が続いていたのを覚えています。
また、ライフラインについて言うと、最後まで復旧が長引いたのがガスでした。
ガスの復旧のために、全国からわざわざ来てくださった関連会社の方々もいたとのこと。
他にもたくさんの有名人の方々が各地の避難所に慰問に訪れてくれました。
そしてたくさんのボランティアの方々も駆け付けてくれました。
復興のための多くの支援物資や義援金も送っていただきました。
台南の高雄市と台南市の市長の熊本訪問など、海外からのご支援もいただきました。
被災者の一人として本当に感謝の気持ちしかありません。
おわりに:次の災害に備えるために
2011年に発生した東日本大震災での被害もまだまだ復興途中です。
そして2016年の熊本地震以降も、北九州豪雨や西日本豪雨、大阪地震や北海道地震など、日本全国で災害が起きています。
「日本で生活していく以上、いつどこで大きな災害に見舞われるか分からない」ということを、僕はこの熊本地震で身をもって実感しました。
熊本は被害の大きかった益城町を中心に、今も1万6000人以上の人たちが仮住まいを余儀なくされています。
2019年に入ってからも、大河ドラマ『いだてん』の主人公・金栗四三のふるさと和水町で何度か大きな揺れが発生しました。
皆さん、避難準備はしっかりとできていますか?
大きな災害が降りかかってきたときのために、自分が避難すべき場所の確認をしっかりと済ませておいてください。
また、いざというときに防災グッズや食料などの備蓄が手元にないとどうしようもありません。
熊本地震が発生する前は、熊本を含めた九州全域の備蓄率が低かったと記憶しています。
飲料水については一人当たり1日3リットルが目安だそう。
やむを得ず車中泊になってしまった場合は、定期的に体を動かしてエコノミークラス症候群になるのを防ぐ必要もあります。
これまで大きな地震が起きていない地域に住んでいる方も、地震なんて他人ごとだと思わずにどうか「自分ごと」として捉えてください。
最後に、地震の発生からこれまで熊本に対してたくさんのご支援をしてくださった皆様、本当にありがとうございました。
思い出せるままに書いたので、取り留めのない文章になってしまったことをお許しください。
ここまで読んでいただきありがとうございました。